ナイチンゲールと日本の看護の歴史

ライター:鈴本 鈴

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ナイチンゲールの実績について「ナイチンゲールの呼び名「クリミアの戦士」の由来や多くの実績について」で触れましたが、いかがでしたでしょうか?「ナイチンゲールって・・・」っと、興味を持っていただける嬉しです。というところで、今回は更に詳しくナイチンゲールの生き様やエピソードに触れていきます。

今度は、ナイチンゲールの冊子になっているいるような本では触れていないようなことに触れていきましょう。みなさんは歴史はお好きですか?その人を理解するのには「その人の生きた時代の理解」が必要です。簡単に言うと、江戸から明治維新からつい最近まで、日本には男尊女卑の考え方が普通でした。まぁ、大昔の儒教の影響を受けているので仕方ないのですが、現在は男尊女卑の言葉を知らない人も出てきているでしょう。

でも、儒教の世界ではまっとうなことだし、日本も影響を受けている時は普通でした。これに対して「えぇーーー」と言えるなら、それは「時代が変わった」ということです。変わった時代から歴史という流れの点だけ見ていても、何もわかりませんので、今回は皆さんをナイチンゲールの時代にお連れします。学校で習う歴史は面白くない。そう思っても、大人になってみると、何故だか大河ドラマに夢中になるということが見られるように、社会に出て色んなことを経験すると何故か歴史の話が面白く感じることがあるでしょう。ナイチンゲールの人生も波乱万丈の人生でした。

ナイチンゲールの生きた時代

日本の革命家、吉田松陰にも影響を与えていた?!

ナイチンゲールはイギリス、吉田松陰は開国もしていない海に囲まれた国”日の本”日本にいました。それでなぜナイチンゲールと関わることになったのでしょうか?これは、実際に対面したなどのことではないです。ただ・・・ナイチンゲールが看護の現場に出向いたのは2年半でしたが、そこはクリミア戦争でした。クリミア戦争って、オスマントルコが衰弱してロシアに狙われていたんだけど、それを嫌ったイギリスとロシアが戦争を始めたんです。

はじめイギリスは参戦する気はなかったのに、船への奇襲をロシアにされてイギリスも参戦することになり、日本行きを考えていた船が急に戻ることになり、先に日本についたのが黒船ペリーになったのです。黒船ペリーはアメリカの船でした。クリミア戦争にアメリカ参戦してないからですh3。遅れてい履いてもロシアのプチャーチンも日本に来ていたんです。日米条約の後になりますが、日露も条約を結んでいます。

こんなことが行われている時に、松陰先生は情報に相殺されて、長崎?浦賀?と行き来し、日米条約を結んでいるアメリカ船に乗船しちゃったんですよね。まぁ、国禁を犯したことになるんだけど、あの時、イギリスの船が戦争してなくてこれてたら?松陰先生はアメリカにこだわってなかったよね?イギリスだったら大丈夫だったのじゃないの?そうなると松陰先生は野山獄に入らないで、人生変わってたと思いませんか?

過去を変えることはできないけど、クリミア戦争にナイチンゲールが僅かな看護師と修道女で戦場に赴き、負傷兵達の対応をしている時に、イギリスが不利な時が有り、船が出せずにアメリカに出遅れた。こんなつながりもあるのですね。ナイチンゲールが初の現場に出て、現場から沢山のことを学んでいるとき、松陰先生は新しい知識欲しくて国禁を犯していたんです。二人はまったく出会っていないけど、ふたりの運命を左右することが螺旋のように絡み合っていたように感じます。

日本の看護の歴史

自国の歴史ですから、少し日本の歴史にも触れておきましょう。実はナイチンゲールが宗教と看護を切り離して考えた人でした。ということは以前にも触れましたが、看護は宗教と結びついていたと記憶されていると思います。イギリスですからキリスト教です。体が衰弱し、食べるものもない、そのような時に修道士、修道女が世話をしていました。他は下女などがお金を稼ぐためになんの教育もなく世話をしている。このような状況が1800年代でしたが、先の始まりは修道院という所で貧しい人たちを救済する・・・ということです。

では、日本では?これも宗教との結び付きがあります。日本での看護の始まりは聖徳太子の時代になります。その仕事は僧侶がになっていて、家庭の中では女性が担当していました。仏教では病人の看護は最も尊い行いとされていたので、聖徳太子は積極的におこなったと言われています。なんと、聖徳太子は看護事業の先駆者とも考えられます。「看病僧」と言われる人も出てきました。そう、職業としての性別は男性が先だったのです。(ここでは聖徳太子の非生存説みたいなことには触れません)このような仏教も衰退する日が来ます。

江戸時代に入ると会津、岡山、水戸などの藩が儒教を盛んに取り組むようになり、藩主たちが神仏分離制作が進み始めました。なんとなく、聞いたことがあるかも?となるのは「会津のじゅうの掟」などは儒教の流れを汲んでいる感じがします。そのように仏教が衰退していくとともに病院施設は失われていき、看護は家庭の中に残り女性がになっていくことが多くなりました。これで、男性から女性の仕事に移り変わっていったのでしょう。また、この時代の医師は蘭学が入ってきた頃で、学んでいれば資格試験があるものでなく誰でもなれたのです。

家庭人としての看護師がこの後に出てくるのは明治維新の時です。時は「官軍・賊軍」と大戦争を国内でしている時に、そこには家庭婦人の看護師役の人が雑用人みたいな感じで存在しだしました。教育を受けていないため、雑用人みたいとなってしまいますが、看護をしていた人です。このようになると、ナイチンゲールのいたイギリスと同じように教養を受けていない下女と言われる人たちが関わっていたのと似ているよう感じます。

日本の看護の再出発がこのような状況であったのですが、明治に入ってから政府は教育に力を入れて日本を作ろうとしてくれていたので、海外(アメリカ、イギリス、ロンドンなど)へ子供や大人を送ってくれて高学歴の人が日本に知識を持って帰ってきてくれるのですが、ここで看護部門は力を発揮し切れなかったのかもしれません。

第二次世界大戦終結後、GHQが来て、保健衛生局担当のオルト課長は医療の記録が国の記録として残っていないため、実際を見て回り状況を把握することにしました。その中で「日本の看護師は医者の下働き」というイメージを持つことになったようです。




日本でナイチンゲールが知られた始まりは?

高木兼寛が作った慈恵医科大学病院がキッカケ

日本での看護の発展状況を先にお話しましたが、それでは「ナイチンゲール」という人の名前が日本に伝わったのはいつのことなのでしょうか?これはナイチンゲールという名前が先ではなくて、看護婦としての役割が先に入ってきました。明治17年頃の話です。実は明治になってから海外へ勉強をしにいっている人の中に、現在の明治の日本の医療状況を救う必要を感じてくれた人が救済院が必要だと思ったわけです。この頃、日本は病気になったら死ぬしかないという状況でした。貧しいから病院にかかれないで死ぬしかないわけです。

そこで、イギリスに留学していた日本人がセントトーマス病院を見て、これを日本に持っていきたいと考えたのです。持って行きたかったのは「患者中心の医療」です。セントトーマス病院はナイチンゲールが作ったナイチンゲール看護婦学校があり、ナイチンゲール病棟があったのです。この日本人は高木兼寛と言いますが、この時既にナイチンゲールは現役を退いていますので会うことはかなっていません。高木兼寛が帰国し仲間を集って作ったのが有志共立病院=のちの慈恵医科大学病院です。

後から高木は「博愛精神を持って貧乏な人民を救済せんと思ったのです・・・中略・・・一に看護、二に医師というぐらい看護の業が大切でありますから看護婦の養成という学校を作りました」などと言われています。すでに明治の初めに看護学校ができ、ナイチンゲール看護学校の教育内容が日本に入ってきていました。そして、看護の世界はナイチンゲールの看護に乗って日本に来たのですが、看護師ナイチンゲールは今後の日本で「修身」という教科書に何度も出現しています。高木兼寛が貧乏な人民を救済するために病院を作っていく上でナイチンゲールの考え方に触れているために「クリミアの天使」というイメージ、「博愛精神」というイメージを学ぶのにナイチンゲールは適していたのでしょう。

ちなみにナイチンゲールは看護学校や病院を設立するのに自分の人脈を使って、クリミア戦争での働きによりエリザベス女王から表彰をされており、その報奨金を使って設立をしています。日本では「鹿鳴館」で女性のバザーみたいなことをして資金を集めたと言われています。この鹿鳴館の時代に日本は「教育」に力を入れていたので、女性の地位向上のための学校を創るとなると、國を動かしている殿方についてくる奥方たちが集まって、そこでプレゼンした津田梅子のような人に感化されての寄付でした。この津田梅子は現在の津田塾を設立したかたですよ。看護の発展のために何がつながって、絡み合っているのか、知らないことがたくさんあります。

赤十字社ってナイチンゲールが作ったの?

ナイチンゲールが「博愛精神」というイメージがあるようですが、先に話したように日本に入ってきたので、日本における看護師のイメージは致し方ないと思います。看護師は「清貧」「奉仕」みたいなイメージなのでしょう。そのような博愛精神を主軸において活動しているのが「赤十字社」です。

実際に赤十字国際員会が看護に功労のあった看護師に与えるのが「フローレンス・ナイチンゲール記章」です。名前のついた記章があるぐらいですし、赤十字社を設立したのはアンリデュナンという人で、この人ジュネーブYMCAとかも設立している人です。この人、自分でも事業を起こしたりしたのですが、あまりに事前活動に力を入れすぎて倒産させてしまってジュネーブ社会から追放されてしまって物乞いするぐらいの貧困生活までしたことがあるそうです。

事業は潰してしまいましたが、水の利権を得るために戦争中のナポレオン3世に会いに行って、そこで戦地の負傷兵の救済を考え、ナイチンゲールの功績もメッチャかっていたのです。そして、敵味方なく救済するのか?と聞かれて「人類みな兄弟」と答えたらしいです。この時のノルフェリーの戦いでの話を「ソルフェリーノの思い出」として出版。戦場において敵味方区別なく救済するのが目的とする赤十字の創設契機になったのです。

あれれ・・・ナイチンゲールをたたえてたのに?一緒にやらなかったの?と感じますが、実は一緒に赤十字やろう!と誘われたナイチンゲールらしいですが、ナイチンゲールは「考え方が違う」と断っています。多分、敵味方なく負傷者を助けよう!と考えたアンリデュナンはより近くにいる人、助けられるなら敵でも構わない。と考えるのでしょうが、ナイチンゲールはそこで「味方からでしょ!」と言っています。はて?博愛精神はいずこに・・・っと思いますよね。

赤十字の赤い十字のマーク、ナイチンゲールの頭にのっかていたキャップに十字のマークはなかったか?なんて思いますが、これってもう歴史がゴチャマゼになっています。さすが「鉄の女」というべきですか?ナイチンゲールはボランティア団体の常時組織の設立は「反対!!」だったのです。だから、赤十字社の活動には一切関わってないそうです。

ナイチンゲールの言い分はこうです「私たち従軍看護師は軍からの派遣要請によって参加しているのだから、軍は国から派遣されている人たちですから、味方の負傷兵から看護する必要がある」まっとうなことです。この考え方はマザーテレサとは違うのですが、ボランティアでの救済活動に賛成しない点では同意見となります。マザーテレサは自己犠牲のみに頼る救済活動は長続きしない。という考え方だったのです。

経済的支援なしには無力であると言われてました。ナイチンゲールは職業としての看護師の確率ですからボランティアでは職業として成り立たない。と考えたのでしょう。赤十字社を設立したのはアンリデュナンって男の人。そしてナイチンゲールは関わり一切なし。でも、アンリデュナンがナイチンゲールの功績をたたえていたため、フローレンスナイチンゲール記章って賞が作られました。ちなみに日本人看護師でこのナイチンゲール記章を受けた人は105名だそうです。




日本のナイチンゲールと言われた人々

新島八重、瓜生岩子、井深八重

フローレンスナイチンゲール記章を日本人が105人受けていると言いましたが、日本には「日本のナイチンゲール」と言われる人がいらっしゃいます。少し前にNHK大河ドラマで「八重の桜」というドラマをしていましたが、これは「日本のナイチンゲール」と呼ばれた新島八重のお話です。会津藩士山本覚馬の妹でして、鶴ヶ城に篭城した時にピストル持って参戦した方です。ある意味、ぶちきれているようにも思えるのですが、女性ですから傷病者の看護にもあたっています。

その後、戦争が終わって京都に行き(兄:覚馬がいたため)、結婚して、先に夫がなくなって、看護師の学校に行ったのです。そして、看護師となり江戸・明治・大正・昭和の4つの時代を生き抜いた女傑ですね。看護学校を日赤を選んだので当然、戦争に駆り出されます。しかし、会津の戦いを経験していたので従軍看護師としては経験を持っていた事になります。

会津は「日本のナイチンゲール」と言われる人が3人います。なぜですかね・・・会津女で、武士の子だから?ですかね。他には瓜生岩子でこの方は「菩薩の化身」などとも言われています。叔父にあたる人が藩医で、幼少の頃に叔父のもとに預けられている時に見て、覚えた看護だったそうですが、この人は戦時に敵味方なく手当したらいです。

60歳の時に磐梯山が大噴火ヽ(´Д`;)ノこの時も60歳ではありますが救護活動に回ったそうです。無料で医療を行うとともに、婦女子の教育にも当たり、この教育の元で野口英世の母のシカは助産師の資格を得たそうです。三人目は井深八重という人。この人は裕福な人で父は衆議院員の井深彦三郎、井深大は遠縁だがソニーの設立者です。遠藤周作の作品のヒロインになった人です。

同志社大を出ていますが、その後、ハンセン病患者に対する看護に取り組み、自身もハンセン病かも知れないという状況になり、実は大丈夫だった。やはり、この病の人達の救済に人生を捧げた人で、ナイチンゲール記章を受けています。この時代のハンセン病患者への偏見は激しいものでしたので、その人達への看護に人生を捧げた功績が認められたわけです。

マザーテレサに続く日本の天使と呼ばれ、母にもまさる母と呼ばれてます。このような人達が日本の看護の礎を作っていってくださったため、今の看護師社会があります。まぁ・・・この先に第二次世界大戦があり、GHQが入ってきて、看護教育は大変な大改革を迎える事になるのですが、今回「日本のナイチンゲール」の話はこの辺で終わりにしておきます。




いかがでしたか?「ナイチンゲールと日本の看護の歴史」として、ナイチンゲールの周りに起きていたことを日本に焦点を当てて、ナイチンゲールの活動の一部、日本との関係、日本におけるナイチンゲールなどについて触れてきました。

ナイチンゲールはイギリスの人、看護師という見え方から、日本に大きな影響を与えている人であり看護についても非常に皮肉っぽく、シニカルな表現がされている「看護覚え書」は、決して専門家=看護師のための本ではありません。なんせ、ナイチンゲールが大きく取り上げた内容は「反医師・反病院・反病院看護」なのです。そんなナイチンゲールが書いたのが「看護であること・看護でないこと」なのです。とても興味深い人です。私たちにとって大切な人たちとの関わりがあったかもしれない。と興味を持っていただければと思います。

人の縁とは不思議なもので、ナイチンゲールの従姉妹とチャールズダーウィンの従兄弟が結婚したので、ナイチンゲールは「進化論」を仕上げたダーウィンと親戚関係なのです。こんなこと、あり?と思いませんか?こんなふうにナイチンゲールはかなりの人脈を持っており、また、最大限に生かした人だと思います。まだまだ、ナイチンゲールについて続きます。

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